
アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ
アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(Arturo Benedetti Michelangeli, 1920年1月5日 – 1995年6月12日)はイタリアのピアニスト。
略歴
ブレーシャ地方の出身。ミケランジェリ家は、アッシジの聖フランチェスコの末裔と伝えられる。3歳から音楽教育を受け、最初はヴァイオリンを学んだが、間もなくピアノに切り替えた。10歳でミラノ音楽院に入学。父親の主張により、一時期医学を学んだこともある。18歳のとき国際イザイ音楽祭に参加し、第7位に入選して、プロの演奏家の道を歩み始める。翌年のジュネーヴにおけるフェスティバルでは、審査員長のアルフレッド・コルトーより「リストの再来」と賞賛された。このときのコンクール運の悪さが相当コンプレックスになったらしく、後年は数多くのコンクールの審査員を務める一方で、だれにでも教えたがる名教師としての称号も貰うようになる。一説には弟子の数は1000とも2000ともいわれる。
ミケランジェリは音楽家としての肩書きに加えて、医師・パイロット・レーサーのほか、第二次大戦中はファシズムに対するレジスタンスの闘士としても活躍した。この時期に腕を負傷したらしい。キャンセル魔であったことは単に奇行ではなく、腕の傷の後遺症から来る健康状態の悪化を常に気にしていたためとの説も見られる。
業績
ミケランジェリは、ホロヴィッツやリヒテルと並んで、20世紀において最もコントロール能力に長けた、最も個性的なピアニストの一人に数えられている。またノーミスの演奏でも名高い。このためしばしば、フェルッチョ・ブゾーニ以降のイタリア人ピアニストの中では最も重要な一人に数えられてきた。
ミケランジェリは、チェリビダッケと並んで録音ぎらいの演奏家としても有名だが、それでもミケランジェリの残した正規録音の中で、ドイツ・グラモフォン・レーベルにおける一連のドビュッシー作品の録音は、やや雰囲気不足の感は免れないにせよ、ドビュッシー演奏の一つの基準に数えられている。録音自体も意外と早い時期にデビューしており、1942年にテレフンケンへグリーグとシューマンのピアノ協奏曲を録音したのが恐らく最初の録音であろう。
ミケランジェリは、演奏会ピアニストとしては驚くほどレパートリーの幅が狭いが、ベートーヴェン、シューマン、ショパン、ブラームス、ドビュッシーはしばしば演奏会で好んで取り上げており、これらの放送音源やプライヴェート録音は海賊盤にも流出して、音楽愛好家の知るところとなっている。演奏会の突然のキャンセルだけでなく、使用楽器に対するいかにも完璧主義者らしいこだわりによっても名高い。最後の演奏会は、1993年5月7日ハンブルクにおいて行われた。病気の進亢によりルガノにて他界した。
奏法
リヒテルと違い、鍵盤の上部雑音を出来る限りゼロにする異端のピアニズムでしられている。この趣旨を生涯守りつづけた為に、極端に遅いテンポと奇矯なアゴーギクがついて回ったが、それこそがミケランジェリの美学と全く疑わないファンも全世界にいる。この鍵盤にぴったりと手が張り付く演奏はブゾーニ直系であり、日本人の信者を多く生んだ理由もブゾーニ経由のピアニズムを通過した日本の留学生が多かったからと言われている。ミキモト・タッチは確実にミケランジェリのマナーから多くを得ている。……
(Wikipedia: アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ)